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沿革詳細

詳細1

病院設立の経過

北佐久郡に設備の完備した公的病院の設立要望は、数年前から一般住民の間において切実な願望でもありました。したがって、北佐久地方は国民健康保険事業に対する市町村の理解も特に強く、昭和25年当時の布施村を皮切りに全郡にわたり国民健康保険事業の充実促進が急速に推し進められ、昭和32年4月には全郡下に施行されるに至りました。

この頃郡内における公的医療機関としては、軽井沢病院、川西赤十字病院のみにて、他郡に赴く以外方法がありませんでした。
昭和32年10月、たまたま浅科村公民館において北佐久郡町村議会議員大会が開催された際、浅間町議会より緊急提案がなされた。北佐久郡全町村にわたり国民健康保険事業が施行されたが、これを契機とし永年にわたる地域住民の念願であった、直営の公的診療施設で最も優秀かつ模範的医療センターのような病院建設案が提案された。
この提案は保険事業に理解ある市町村の大会であったため、即刻その要望が取り上げられると同時に、病院設立が大会において議決されました。病院建設位置は浅間町町内と決定されました。

当時の町村は、事業そのものに対する趣旨には賛成でしたが、浅間町をはじめお互いに町村財政は苦しく、決して裕福ではありませんでした。結果として、当時北佐久郡内の政治、文化、教育、経済等の中心であった浅間町が一切の病院経費を負担するということで一部事務組合を設立して実現を計りました。
<設立当時の関係町村>
  • 浅間町
  • 軽井沢町
  • 本牧町
  • 春日村
  • 東村
  • 浅科村
  • 立科町
  • 北御牧村
  • 御代田町
  • 布施村
  • 協和村
「病院は旧浅間町の中心部から大分はづれた田んぼの真中にある。男松、女松が共生しているので、天然記念物に指定された”相生の松”を中心に、亭亭と沢山の老松が聳えていた小山、其処は昔から里人の憩いの場所であり、近頃は若人達のデートの場所であり、夜は又時折追いはぎが出没する場所でもあったと云う。病院を建設する地点について医師会と協議した時に、はじめは長土呂の国道北側に交通至便な用地を予定していたが強く反対があり、この小山を崩して病院を建てるならばよろしいとの事で、現在地が選ばれたらしい。

「秋風の吹く頃には物好きに東京から乗り込んで来た医者達は逃げ出すさ」と云う噂が飛んでいるとか、わざわざ注進に来てくれた親切な人も居た。然し私共はもう少し遠い将来を楽観的に考えていた。
私は開院の準備をしながら職員にこう話した事があった。「アメリカに有名なメイヨークリニックと云う大きな病院がある。其の病院は始め全くの広野の真中に立てられた。所が数年のうちに市街と飛行場までが病院に向って引越して来た。今では病院を中心に立派な都会ができていると云う。我々も親切に、そして常に進んだ医療技術の水準を維持してゆけば必ず町の方で引越してくるよ。其日を楽しみに頑張ろうぜ。」
(創立5周年記念誌 - 「日記帳から」 院長 吉澤國雄)

詳細2

病院規模

診療科目
内科、小児科、外科、産婦人科、眼科の5科
厚生省規格の丁型病院
入院施設収容定員20床

詳細3

医師の招聘

開院当時
模範的医療センター病院の建設と最高の医療を受けたい望みから、東京大学医学部に医療担当員派遣の交渉を行いました。当時の東京大学医学部教授沖中重雄先生の格別なる御高配により各科担当医師の派遣が実現しました。
初代浅間病院院長:吉澤國雄 医学博士(沖中内科)
副院長:福内匡男 医学博士(木本外科)
眼科医長兼医局長:小関茂之 医学博士(荻原眼科)

医療機器の整備

当時の眼科機器
浅間病院の医局構成を東大が引き受けるにあたって、その第1条件として沖中教授が提示されたのは、最新の精密医療器械及び設備の設置でした。しかしそれら機器の殆どが厚生省丁種規格の病院用としては補助金の対象外であり、自費で購入しなければなりませんでした。機器購入の交渉には吉澤院長が直接交渉に当たられました。
その折の相手であった病院組合M氏の言葉が創立5周年記念誌に記載されています。

「ようがす、其の器械が月世界にでもあるのならともかく、地球上にあるのならなんとかしやしょう」

「院長は赤字の心配までしなくてよろしい。わしどもにまかしておきなさい。毎日立派な診療さへしてくれればよろしいです」

詳細4

祝砲(吉澤國雄先生の日記帳より)

昭和三十四年七月十一日病院に隣接の岩村田高校講堂を拝借して盛大な開院祝賀式典が挙行された。
現役の優秀な医局員を病院の各科医長として夫々派遣して下さった母校東大医学部の各教室から、教授、助教授以下多数の諸先生が遠路わざわざ御来院くださり前夜は上山田の清風園で、歓迎会を兼ねて東信鉄門会(同窓会)が賑やかに開かれ病院の前途に対して大いに祝福と激励を戴いたが、さて、その翌朝である。
院内を御案内し、院長室で諸先生にしばらくお休み戴いた後、いよいよ式場へ向う可く病院玄関に下り立って、正面の浅間山に目を移した途端、ドカーンと云う物凄い音と共に大爆発が起って、同時に木造の本館がガタガタと振動する騒ぎが突発した。

諸先生も私共も始めて見る浅間山の大噴火にしばらくは呆然として黒煙を眺めていたが、やがて誰方の口からともなく、「祝砲だぜ」「浅間山の打ち上げ花火だ」等との言葉が取り交わされて期せずして一斉に拍手したことであった。
其後の五年間にこの時程の大爆発はみられず、将にタイミングのよい千載一遇の”浅間山の大祝砲”と云うことになった。

詳細5

開院して

開院当初の外来患者数
80名前後/日
2ヵ月後
150名程度/日
常に満床で、2~30名が入院の順番を待っていた。

詳細6

医師会との軋轢

当初150床の病院建設計画であったが、地元医師会の強い反対にあい、県の医療審議会を中心に幾度も折衝が続けられ、ついには以下のような協定書が病院組合長と地元医師会長との間でむすばれ、初めて病院開設が実現しました。

(イ)敷地を浅間町相生の松地籍に建設すること
(ロ)病床は一般二十床、伝染病床三十床とすること
(ハ)診療科目は医師会と協議の上決めること
(ニ)往診はなるべく受診中のものに限定すること
(ホ)開業医の従業員を院主の許可なく雇わないこと
(ヘ)単価は医師会と同一歩調をとること
(ト)病院の運営には医師会員を参画させること
(チ)診療関係及び施設関係を変更しようとするときはあらかじめ医師会と協議すること

昭和35年、100床増床と耳鼻咽喉科開設を要望しましたが、医師会は時期尚早と反対声明を出しました。問題は県の医療審議会にまで持ち込まれ、最後に45床増床という妥協案に落ち着きました。(昭和35年6月)

詳細7

佐久市発足

昭和36年4月1日、浅間町、東村、中込町、野沢町が合併し佐久市となりました。浅間病院組合も佐久市北佐久郡国民健康保険浅間病院組合と改称されました。

詳細8

佐久市内初の全館暖房ボイラー施設でした。

詳細9

小山組

昭和36年秋から37年にかけては病院の改造が積極的に行われた。収容患者の増加、外来患者の増加、それに伴って職員の増加等により、至る所の旧施設が手ぜまになった為である。
炊事の拡張及び蒸気炊飯器其他新炊事器械類の設置、職員食堂の拡張、患者待合室、事務室の改造拡張等、毎日院内の何処かでノミやカンナの音がしていると云う有様であった。
これらの工事が殆ど外部の請負でなく、”小山組”とあだ名された程に、小山事務長の監督下に事務職員の協力のもとに行われた事は、多額の工事費節約となり大いに病院財政に寄与したので特に書きとどめておこう。」
(創立5周年記念誌 61ページ)

詳細10

開頭手術の成功

昭和37年4月5日、初めて外傷患者の硬膜外血腫除去手術が行われ成功した。

詳細11

西ドイツWürzburg大学、Wollheim教授来院

日本医学会総会に特別講演を依頼されて来日された帰途、日本の農村第一線病院の実態を知りたいとのご希望から当院を訪問されました。教授の教え子で当時当院の内科医長として勤務しておられた東京大学中尾内科の井形昭弘博士のご紹介によるものでした。

井形博士の司会で地域医師会員の方々を交えて臨床研究会(心臓病を中心とした臨床検討会)が開催されました。その席上Wollheim教授は「スケールの小さな病院としては、施設及び技術の面で高い水準にあるすばらしい病院である」とお褒めの言葉を下さった。
「内科」第13号に掲載。

詳細12

県下初の心臓手術に成功

昭和38年8月29日、長野県下で初めての心臓手術(僧帽弁狭窄症)が行われ成功しました。心臓の手術は、世界的にもまだ始まって十数年と歴史が浅く、地方の小病院での成功例はあまり例がない時代でした。東京大学から4名の医師が派遣され、手術器具、心音心電図監視装置も搬入されました。手術後の経過も順調でした。

「それにしても今日の患者にも感謝せねばなるまい。心臓外科の患者第一号になることに少しの躊躇もなく浅間病院にすっかりまかせ切った態度には全く敬服に値する。患者自身にも勇気が必要なのだ。この患者の勇気と信頼があったからこそ今日の心臓手術が実現したのだ。」
(相生会会報「あさま」第2号より)

詳細13

パネルディスカッション「浅間病院如何にあるべきか」-その現在と未来ー

昭和48年6月28日に第14回開院記念日の記念行事として行われた。福内院長は以下の所信を述べました。

「病院開設以来の方針は高度の医療を地域住民にサービスするということで、病院の発展は常に医療の向上と、地域住民への医療サービスの還元という姿で行われてきたのであります。
患者さんのためのよりよき診療を目指し、信頼され愛される病院にするために、浅間病院いかにあるべきか、この問題に対して日頃考えている所信を申し述べます。

先ず第一に、浅間病院は住民の期待に沿うものでなければなりません。患者あっての医療であり、患者あっての病院であります。
そもそも当病院の発足は北佐久郡町村議会議員大会において、公的総合病院建設議案が上程され、満場一致で議決されたのが契機であり、住民のための病院として、地域住民の期待の中に生まれたものであります。今回の前面改築に際しても、市議会が率先してことに当たられた事は周知の通りであります。
病院に寄せられた期待に沿うべく努力し、住民の要望や患者さんの声には謙虚に耳を傾けることが大切であります。

次に、浅間病院は、最も適切にして、最新最高の医療を提供するものでなければなりません。医療機械器具の整備等は勿論のこと職員全部が研修に心がけ、患者さんを中心としたチームワークのもとに業務に精励しなければなりません。また患者さんのために開業医や他医療機関と連携協調が大切でありますので、職員一同もこの協力体制に参加しなければなりません。

第3に、医療の質と量の変化に対処すべく常に弾力性あるエネルギーと叡智が必要であります。医学は日進月歩であり、医療の社会化や福祉行政の施行等によって、その質と量は著しく変わって来ております。制度上の矛盾や歪みは沢山ありますが、そのシワ寄せが患者さんん降りかかることを極力避けるようにしなければなりません。

以上申し上げたことは、病院の組織や運営、或いは財政に関する点が多いのですが、最後に私が特に強調したいことは、よりよき診療を行うためには、私達一人一人が、よりよき医療人でなければならぬということであります。医療はあくまでも人間が対象であり、感情と意志を持ち、それぞれ異なった生活環境を持つ一人一人が相手であります。
従って医療は極めて人間的であり、個人的であります。私達一人一人が全人格的に患者さんに接し、理解と愛情を持って看護に当たることが最も大切であります。

浅間病院の医療というも、つまるところ私たち一人一人が行う毎日に仕事の表れなのです。一人一人の一日一日の仕事が大切なのだということを申し上げたい。その心掛けとして”親切で誠実なれ!明朗で節度あれ!”という病院開設以来のモットーを、今日あらためて掲げて私の発言を終わります。」
座長:吉澤國雄
Ⅰ 診療体系について
ー患者のためのよりよき診療を求めてー
〇患者のための診療とは? 福内
〇財政の現況と将来 土屋輝男
〇患者とのコミュニケーション 望月栄子
〇薬と経済 戸塚宏志
〇病院の食事とは? 森泉きく子

Ⅱ 地域医療活動について
ー病院を中心とした予防医学の方向を求めてー
〇健康管理の現況と将来窪田俊朝
〇虫歯の集団管理とその効果について 木次英五
〇放射線科から見た地域医療 宇田川九衛
〇検査室から見た地域医療 小林文人

Ⅲ 病院組織と運営について
ー働きよい魅力ある職場とするためにー
〇他部門とのコミュニケーション
看護部中間管理職の立場より 塩野入和子
〇専門職意識とコミュニケーション 宇田川九衛

詳細14

開院15周年記念行事対話集会

「患者・市民の皆さんは浅間病院に何を求めるか」
昭和49年6月27日に開催されました。医療の主体は住民、患者であると特に強調される今日、私達医療職員として謙虚に患者さんの声をきき、少しでも住民のニードを知る必要があると考え試みられました。

司会は倉沢外科医長、予め発言を依頼しておいた患者さん6名、入院患者さん約30名、大勢の職員が一堂に会して熱心に討議されました。そして、如何に浅間病院への期待が大きいか、また同時に、批判も厳しいことを新たに思い知らされた一日でした。

詳細15

昭和51年度保健文化賞

受賞の対象となった業績は佐久地域における脳卒中予防対策でした。佐久市発足の後昭和38年の統計によると、佐久市の脳卒中死亡率は人口10万当たり363.3の高率で県内最高また、日本一でありました。

当院はその予防活動の中心となり、市の保健衛生担当課、国保保健婦、住民組織となり一体となり15年余にわたり努力し、さらに昭和49年からは佐久市健康管理センターが設置されて、引き続きセンターを中心に当院が協力して著名な成果をあげました。

脳卒中の訂正死亡率は、昭和49年度には人口10万対155.9となり、初めて全国平均値(163.0)より低下しました。