代用胃(パウチ)間置術
胃袋の代わりに小腸で胃袋を作る機能再建を目的とした生理的再建法
病院から北を望む(浅間山)
病院から南を望む(蓼科山)
担当医師プロフィール
- 医師
池田正視(いけだ まさみ)
- 所属
佐久市立国保浅間総合病院 外科
略歴
昭和51年3月 | 麻布高校卒業 |
昭和58年3月 | 東邦大学医学部卒業 |
昭和62年3月 | 東邦大学医学部大学院医学研究科卒業 |
平成4年1月 | 東邦大学医学部助手(外科学第2講座) |
平成7年9月 | 長津田厚生総合病院外科出向 |
平成8年12月 | 東邦大学医学部助手(外科学第2講座) |
平成17年6月 | 独立行政法人国立病院機構 南横浜病院消化器センター消化器外科医長 |
平成20年9月 | 横須賀市立うわまち病院外科医長 |
平成22年8月 | 佐久市立国保浅間総合病院外科医長 |
資格
昭和58年5月 | 第75回医師国家試験合格(医籍登録番号第273909) |
昭和62年3月 | 学位授与(東邦大学甲第82号) |
昭和62年11月 | 日本外科学会認定医取得(第1861号) |
平成9年2月 | 日本消化器外科学会専門医取得(第571号) |
平成10年12月 | 日本外科学会指導医取得(第S004007号) |
平成13年4月 | 日本消化器外科学会指導医取得(第2888号) |
平成14年12月 | 日本外科学会外科専門医取得(第1800232号) |
平成18年3月 | 日本胃癌学会評議員 |
平成19年3月 | 「胃癌術後評価を考える」ワーキンググループ発起人 |
平成20年3月 | 日本消化器外科学会消化器がん外科治療認定医取得(第498号) |
平成22年5月 | 第4回日本ハンガリー外科学会組織委員 |
主要論文および著書
- M.Ikeda, T.Ueda, T.Shiba: Reconstruction after total gastrectomy by the interposition of a double jejunal pouch using a double stapling technique. Br J Surg 85: 398-402, 1998.
- M.Ikeda, T.Ueda, K.Yamagata, J.Takatsuka, M.Yamaguchi, T.Shiba:Reconstruction after distal gastrectomy by the interposition of a double-jejunal pouch using a triangulating stapling technique. World J Surg 27: 460-464, 2003.
- M Ikeda, M Ryu, K Yamazaki,.M Tsuchiya, H Kaneko, M Miyairi: Long-term follow-up of a pouching operation after pancreaticoduodenectomy using a doublejejunal pouch. Hepatogastroenterology 54(80):2398-400,2007.
- 池田正視、上田哲郎、山形邦嘉、若林峰生、岡田啓二、馬越俊輔、大橋佳弘、高塚純、柴忠明、山口宗之:Pseudo fornixを有する胃全摘後His角形成Pouch間置術.臨床外科55(6):709-717,2000.
- 池田正視、上田哲郎、柴忠明:早期胃悪性腫瘍の治療:パウチ形成法.図説消化器病シリーズ7、胃悪性腫瘍p155-161,2000.
- 池田正視、上田哲郎、馬越俊輔、大橋佳弘、名波竜規、柴忠明:胃全摘後His角・Pseudo-fornix形成Pouch間置術―手技上の要点を中心にー.手術57(4):467-74,2003
- 池田正視:胃全摘・機能再建手術.胃癌術式と胃術後障害そのコンセンサスの現状と解説.p87,92,96,106,2009.
2008年4月第108回日本外科学会定期学術集会の時、長崎グラバー邸で。
学会2004年9月第12回欧州消化器病週間の時、ウィーン楽友協会ホールで。
2004年9月第12回欧州消化器病週間の時、プラハでヴィシェフラドの丘からのモルダウ川
目次
はじめに
佐久市立国保浅間総合病院外科の池田正視と申します。消化器全般を担当しておりますが、胃の手術、特に胃を切除した後の再建法(つなぎ治す方法)を専門に研究してまいりました。
現在、胃がんは診断技術の進歩や健康診断の普及などによって、早期に発見され、手術や抗がん剤投与により治って社会復帰される患者さまが増えてきています。
それに伴い、社会復帰される患者さま方から、治ったのに従来のような仕事ができず自信を失われ、結果的に満足できない人生を送られているなどの悩みがあり、生活の質(QOL、クオリティ・オブ・ライフ)の向上を望まれる患者さまが増えてきております。
現在一般的に行われている手術では、術後に食べた物を貯める胃袋は無くなるかもしくは小さくなってしまいます。そのため、手術して退院した後は、手術前に食べていた量を食べようと思っても、すぐにお腹が一杯になってしまい、時間を空けて何回にも分けて食べなければならないことが少なくありません。
また、横になったりすると消化液や胃の内容物を貯めておくダムの役割をする胃の部分(胃底部)がないため、食道や残った胃に消化液などが逆流してきて胸やけが生じたり、胃を切った後の困った症状(胃切除後症候群)が現れる患者さまもおられます。
現在、胃がんは診断技術の進歩や健康診断の普及などによって、早期に発見され、手術や抗がん剤投与により治って社会復帰される患者さまが増えてきています。
それに伴い、社会復帰される患者さま方から、治ったのに従来のような仕事ができず自信を失われ、結果的に満足できない人生を送られているなどの悩みがあり、生活の質(QOL、クオリティ・オブ・ライフ)の向上を望まれる患者さまが増えてきております。
現在一般的に行われている手術では、術後に食べた物を貯める胃袋は無くなるかもしくは小さくなってしまいます。そのため、手術して退院した後は、手術前に食べていた量を食べようと思っても、すぐにお腹が一杯になってしまい、時間を空けて何回にも分けて食べなければならないことが少なくありません。
また、横になったりすると消化液や胃の内容物を貯めておくダムの役割をする胃の部分(胃底部)がないため、食道や残った胃に消化液などが逆流してきて胸やけが生じたり、胃を切った後の困った症状(胃切除後症候群)が現れる患者さまもおられます。
私は、医学が進歩しているにもかかわらず、患者さまが胃切除後の症状に苦しんでおられることに、大きな違和感をいだき、QOLの観点から、以前と変わらない快適な日常生活を送ることができるよう、胃を切った後に代わりの胃袋を作る代用胃作製術、とくに空腸を使う二重空腸嚢(パウチ)間置術という再建法を研究し採用してまいりました。
このホームページでは、この再建法について、図や写真を交えながら紹介させていただきます。
このホームページでは、この再建法について、図や写真を交えながら紹介させていただきます。
代用胃(パウチ)とは?
正常な胃袋は、食べ物を貯留し適度に混和(混ぜ合わせること)した後、徐々に胃の先にある十二指腸へと食べ物を送り込むことにより、十二指腸から小腸で行われる消化と吸収を効率の高いものとしております。従って胃を切った後は、通常ですと消化吸収機能が低下することになります。
しかし、従来胃がもっている食べ物を貯めたり(貯留能)、徐々に十二指腸へ送り込む(排出能)働きをもつ代わりの袋を空腸(十二指腸の先にある長い小腸の一部)で作ることができます。この胃の代わりとなる袋が、代用胃(パウチ、二重空腸嚢)と呼んでいるものです。
しかし、従来胃がもっている食べ物を貯めたり(貯留能)、徐々に十二指腸へ送り込む(排出能)働きをもつ代わりの袋を空腸(十二指腸の先にある長い小腸の一部)で作ることができます。この胃の代わりとなる袋が、代用胃(パウチ、二重空腸嚢)と呼んでいるものです。
切り取ってなくなった胃袋のあった所にこの空腸で作った代用胃を置くことで、1回の食事量を増やし1日3回の食事で栄養状態を維持できるようにし、なるべく手術前と同じ食生活が送手術前と同じ食生活れるようにするわけです。
胃を切った後の再建法として代用胃作製術を採用された患者さまは、実際に良好なQOL(生活の質)を得られております。
胃を切った後の再建法として代用胃作製術を採用された患者さまは、実際に良好なQOL(生活の質)を得られております。
どんな時に代用胃を?
胃がんと診断を受けられた患者の皆さまがほとんどですが、胃に出来る病気で胃を切らざるを得ず、胃が完全になくなってしまうか、残った胃が小さくなった方にはこのような代用胃を作る手術をしております。
この場合は、通常の胃を切った後の再建法に比べ、若干複雑な手術になるため手術時間が1時間前後長くなります。そのため、重い糖尿病や腎不全などの病気を持たれておられたり、心臓、肺、肝臓などの持病のある方やご高齢の方は、代用胃を作製するかどうかは慎重にその適応を検討させて頂いております。
もちろん最終的には手術中のお腹の状況で、代用胃を作る意義があるかないかを私共で判断させて頂くことになります。
この場合は、通常の胃を切った後の再建法に比べ、若干複雑な手術になるため手術時間が1時間前後長くなります。そのため、重い糖尿病や腎不全などの病気を持たれておられたり、心臓、肺、肝臓などの持病のある方やご高齢の方は、代用胃を作製するかどうかは慎重にその適応を検討させて頂いております。
もちろん最終的には手術中のお腹の状況で、代用胃を作る意義があるかないかを私共で判断させて頂くことになります。
どんな手術なのか?
1.胃を全部とった時(胃全摘出術)
2.胃が少しだけ残った時(幽門側胃切除)
残った胃(残胃)と十二指腸の間に小腸で作った代用胃を置きます(図4)。これにより、食物は食道から残った胃と代用胃によって作られた袋に一旦貯留した後に徐々に十二指腸へ流れていくことになります。胃を全部とった時と同様に今回は小さな残った胃とこの代用胃が貯留能と排出能を有することになります(図5)。
従来の再建法では、残った胃と十二指腸を直接繋げる(ビルロートⅠ法)(図6a)か、または胃を全部とった時と同様に一本の空腸を持ち上げて残った胃に繋げ、十二指腸は閉鎖(Roux-en-Y法)(図6b)することになります。ビルロートⅠ法では残った胃や食道の粘膜(内側)が荒れること(残胃炎・食道炎)が多く、さらに長い期間を経て残った胃に悪いもの(残胃癌)ができたりすると言われております。しかし、パウチ間置術(■)は胆汁などが流れ出る十二指腸と残胃の間に代用胃を置くことにより、ビルロートⅠ法(■)に比べ(図7)、残胃炎は軽微なものとなり(図8)、逆流性食道炎の程度も軽減されます(図9)。
従来の再建法では、残った胃と十二指腸を直接繋げる(ビルロートⅠ法)(図6a)か、または胃を全部とった時と同様に一本の空腸を持ち上げて残った胃に繋げ、十二指腸は閉鎖(Roux-en-Y法)(図6b)することになります。ビルロートⅠ法では残った胃や食道の粘膜(内側)が荒れること(残胃炎・食道炎)が多く、さらに長い期間を経て残った胃に悪いもの(残胃癌)ができたりすると言われております。しかし、パウチ間置術(■)は胆汁などが流れ出る十二指腸と残胃の間に代用胃を置くことにより、ビルロートⅠ法(■)に比べ(図7)、残胃炎は軽微なものとなり(図8)、逆流性食道炎の程度も軽減されます(図9)。
(注1)図中のカラー写真はすべて内視鏡(胃カメラ)写真です。
(注2)図7の見方
残胃および食道の粘膜を内視鏡(胃カメラ)で観察し、残胃の発赤、浮腫、びらんの程度を各々4段階(a)でスコア化し合計したものを残胃炎スコア(FS)とし、逆流性食道炎の程度はロサンゼルス(LA)分類の4段階(b)でスコア化(FS)して評価した。
a | b | |
0 | なし | Grade N,M |
1 | 軽度 | Grade A |
2 | 中等度 | Grade B |
3 | 重度 | Grade C,D |
手術後の体重と食事量は?
通常の再建法と比べて、胃切除後の体重や食事の摂取状況は?
このような代用胃作製手術を受けられた方と従来から最も多くの施設で行われている再建をされた方を比較してみました。
1.胃を全部とった時(胃全摘出術)
パウチ間置術(■)とルーワイ再建法(■)を比較してみました。パウチ間置術は、長期的に愁訴(しゅうそ)*が少なく、1回の食事量が多く、体重の減少が少ないという結果が現時点では得られております(図10)。
2.胃が少しだけ残った時(幽門側胃切除)
パウチ間置術(■)とビルロートⅠ法(■)を比較してみました。パウチ間置術は、現時点では体重や食事の摂取状況にはあまり差はみられませんでしたが、術後経過を通じて長期にわたり愁訴(しゅうそ)*はほとんどありません(図11)。
(注)図10、11の見方
- *愁訴(しゅうそ)は、手術後に出現する逆流感、胸やけ、つかえ感、もたれ感、動悸、腹痛、冷汗、下痢といった訴えを、各々0:なし、1:軽度、2:中等度、3:重度でスコア化し、全てを合計した点数を、その時点での愁訴(しゅうそ)スコア(CS)として計算した。
- 体重と1回食事摂取量に関しては、手術前を100%として百分率(%)で表記した。
代用胃は長持ちするの?
小腸で作った袋を胃の代わりにしても大丈夫?
小腸にはいつもある程度消化された流動物が流れております。代用胃作製手術では、その小腸を飲み込んだ食後のあまり消化されていない食物を溜めておく働きをもつ代わりの胃袋として使うことになります。
良好な食生活をおくっています小腸の内側の壁(粘膜)に長い時間たつといかなる変化が出現するかは、不明な点がないわけではありません。しかし、私どもの術後もっとも長い患者さまでは現在15年以上経過されておりますが、小腸の粘膜には内視鏡(胃カメラ)で診ても、病理組織学(顕微鏡)や分子生物学(遺伝子)レベルで検討しても、代わりの胃袋にしたための悪い変化は認められておりません。内視鏡(胃カメラ)で観察した代用胃も、同じ患者さまでは手術後時間が経ってもほとんど変化はありません。(図12、図13、図14)
良好な食生活をおくっています小腸の内側の壁(粘膜)に長い時間たつといかなる変化が出現するかは、不明な点がないわけではありません。しかし、私どもの術後もっとも長い患者さまでは現在15年以上経過されておりますが、小腸の粘膜には内視鏡(胃カメラ)で診ても、病理組織学(顕微鏡)や分子生物学(遺伝子)レベルで検討しても、代わりの胃袋にしたための悪い変化は認められておりません。内視鏡(胃カメラ)で観察した代用胃も、同じ患者さまでは手術後時間が経ってもほとんど変化はありません。(図12、図13、図14)
代用胃を作るのは安全なの?
手術件数と手術後の合併症は?
現在までに、胃を全部とった(胃全摘)患者さま53名、胃が小さくなった(幽門側胃切除)患者さま43名に、このような代用胃作製術をおこなっております。一般の胃切除術後に出現する以下のような合併症の頻度はこの通り(表1)となっております。
縫合不全(ほうごうふぜん)
縫い合わせた消化管(食道、残った胃、十二指腸、小腸)が繋がらない状態
吻合部狭窄(ふんごうぶきょうさく)
消化管の縫い合わせた部分が狭くなり食物などが通りにくくなる状態
逆流性食道炎(ぎゃくりゅうせいしょくどうえん)
十二指腸に流れ出るアルカリ性の胆汁や膵液などが食道にまで逆流して、食道の粘膜がただれ胸やけなどの症状がでる病態
ダンピング症候群、低血糖症候群
食事の後に動悸、腹痛、ほてり感、冷汗などの症状が出現する病態
腸閉塞(ちょうへいそく)
消化管(主に小腸)が腹壁などにくっ付いてしまい(癒着)、腸の内容物が通過しなくなる病態
(*:癒着を防ぐ効果があるとされる合成吸収性癒着防止材をお腹の中に置いてきた場合)
腹腔内膿瘍(ふくくうないのうよう)
お腹の中に汚いものが溜まる(膿瘍)病態
膵液漏(すいえきろう)
膵臓が分泌する膵液がお腹の中に漏れる病態
表1
胃全摘出術(n=53) | 幽門側胃切除術(n=43) | |
縫合不全 | 2(3.9%) | 1(2.4%) |
吻合部狭窄 | 4(7.7%) | 4(9.5%) |
逆流性食道炎 | 5(9.6%) | 0(0.0%) |
ダンピング症候群 | 4(7.7%) | 2(4.8%) |
腸閉塞 (*合成吸収性癒着防止材) | 8(15.4%) 1*(5.9%) | 6(14.3%) 1*(4.4%) |
腹腔内膿瘍 | 3(5.8%) | 0(0.0%) |
膵液ろう | 3(5.8%) | 0(0.0%) |
まとめ
胃が全部なくなっても、代用胃があれば・・・!
胃が小さくなっても、代用胃があれば・・・!
よくある質問
食事編
生活編
手術編
その他編
お問い合わせ
※具体的な診療・治療に関する件については、直接当院にて診察を受けて下さい。
医療法に抵触する可能性があるため、メールでの回答ができない場合があります。
医療法に抵触する可能性があるため、メールでの回答ができない場合があります。
エッセイ ~マッターホルンの思い出~
胃がんとアルプス
白土 志郎
青麦会第50回記念展を拝見しました。そこで、原 茂介さんの描いた見事なスイスの山々の作品を拝見しました。その中で特にマッターホルンを描いた作品にはとくべつの感慨がわきました。
そこで、それに関するエピソードや思い出を書いてみました。
青麦会第50回記念展を拝見しました。そこで、原 茂介さんの描いた見事なスイスの山々の作品を拝見しました。その中で特にマッターホルンを描いた作品にはとくべつの感慨がわきました。
そこで、それに関するエピソードや思い出を書いてみました。
1995年、私は長津田総合病院の内科・石田秀夫医師に内視鏡による胃内検査を受けた。私は、かねてから心臓の不整脈が時々起こったり、境界域高血圧の傾向があるので石田医師に毎月診てもらい投薬を受けていたが、たまたまこの先生が内視鏡の大家だとの評判を聞いて、検査をお願いしたのである。実は特に気になる程の差し迫った胃の自覚症状とて無かったが、前回の人間ドックの際、慢性胃炎とされていた。
検査は11月10日に行われた。11月は私の誕生月で、毎年のように人間ドックに行くのが慣わしであったが、今年は内視鏡検査をお願いしようと思った。18日にその結果を聞きに行った。すると思いがけず先生から「もう一度内視鏡検査をやらせて欲しい」との申し出を受けたのである。何故だろう?と不審の念を抱きながら、24日に再び先生の検査を受けに行った。「結果は明日お話します」ということで、その翌日検査結果の説明を受けに行った。
先生は極めて率直に話して下さった。「噴門部に初期の潰瘍が存在します。細胞診の結果から、すぐに外科治療を受けたが良いと思われます。今、外科に連絡しましょうか?」私は充分事柄を理解する余裕もないままに、ことの重大さを反射的に悟り、外科への連絡──入院と手術依頼を即座にお願いした。入院は、12月5日、手術予定日は14日と決まった。
この経過を回顧すると、運命の不思議さと、私が非常に運が良かったことに今更のように驚き感謝の念を抱くのである。先ず、このときに、内視鏡の大家にお願いしたことも、このときに入院・外科手術を予約したことも不思議なめぐり合わせであった。後述のように、手術を担当してくださった池田正視医師は、東邦大大森病院外科所属の若い外科医で、胃の手術で失われた胃を、患者の小腸で作った袋で代用する研究をして来た人であった。代用胃の研究は1950年ごろから行われて来たそうである。池田医師は、この特殊な外科手術のやり方をマスターし、たまたまこの時期に長津田総合病院外科に短期配属されて来ていたのであった。
手術予定日の2日前、池田先生から手術に関するご説明をうけた。体格の良い血色のいい、この医師は、率直に説明してくださった。
「噴門部に小さい初期腫瘍があり、幽門部迄の胃を全摘する必要があります。私が考えている胃切除のあとの再建法は2つあります。1つは、十二指腸よりもっと先の空腸を引っ張り上げて食道とつなぐ方法です。これは、十二指腸の入り口は閉じ、胆汁などの十二指腸から流れてくる消化液は、引っ張り上げ空腸の先の方に流し込むようにする従来から一般的に行われている方法です。
もう一つの方法は、空腸を20センチほど切って袋(パウチ)──つまり代用胃をつくり、胃のあった部分にはめ込んで使う方法です。これはパウチ間置術というやり方です。この方法ですと2時間ほど手術の時間が長くなりますが、手術後の食生活は楽になります。
私の経験では、年齢から考えると(私は当時75歳であった)、術後の食事量は若い人のようにはならないと思うので、第一の方が良いのではないかと思いますが、どちらを選びますか?」
私は自分の生理学に関する知識を一生懸命思い起こし、食べた食物が食道から移動して十二指腸に行き、そこで消化液の分泌を受けて消化される経過を、考えた。そして第二の方法をして貰いたいと意思表示を行った。自然に近い形になる方が望ましいと思ったのである。手術時間の長いことは、医師グループを信頼し、気にすまい、と決断した。そこで、こう返事した。
「私は、体力には自信がありますから、第2の方法でやって頂きたいと思います。宜しくお願いします。」
池田先生はうなずかれ、なお開腹時の様子も考慮するつもりです、と言われた。
こうして私は1995年12月5日に入院し、その翌日から手術の前日13日まで、CT検査その他の種々の検査を受けた。毎日、妻、2人の娘とその家族、親戚・友人等が訪れ、見舞いと激励をしてくれ、とても嬉しかった。
14日、手術の日が来た。
手術室に運び込まれると、私は、脊中へ管を入れる硬膜外麻酔を併用した全身麻酔処置を受けて、間もなく深い眠りに沈み記憶が無く、勿論痛みも不快感も全く無い状態になった。
妻と次女は、手術室近くの廊下の椅子で待機していたが、途中で看護婦に病室で休んでいるように案内され、その際空腸の加工術の実施中だと告げられたそうである。又、後日の説明によると、わたしの腸は細めで、その為パウチ作製に時間がかかったとのことであった。
妻と次女は、7時間を越える手術の無地終了の知らせを受け、熟睡状態の私は病室のベッドへと運ばれた。それから2人は手術室に案内され、脇机の上の皿にうずたかく盛られた、私の切り取られた肉体の部分(胃袋、脾臓、リンパ組織など)の山を見せて貰ったそうである。
一方私は全身麻酔で深い眠りの中にあり、痛み、苦痛、不安などは一切なく、翌朝、戻った意識は全身に接続された沢山のチューブ(体に何かを入れるためのものや、身体から何かを取り出すためのもの)で、少し鬱陶しかったが、ただじっと横たわっているだけの為には、結構便利で楽に過ごせると思われた。それも、日数の経過とともに次第に減らされていった。一番驚いたのは、手術の翌日、病床に見えた小野久弥外科部長が、「貴方は、特殊な手術をうけられたのですが、大変上手に済みました。もうそろそろ身体を左右に回してみなさい。」と言ったことであった。
尿の排出用チューブは取り除かれ、他のチューブを何本もぶら下げながら、個室のトイレに自分の力一つで歩いて行き、用をすませた時は、とても嬉しかった。しかし、ベッドの傍で丸椅子にちょっと一休みと腰掛けようとしたときは、吃驚した。ゆっくり腰をおろす積もりだったのに、支えきれず、すとんと尻が丸椅子の上に落ちるように腰掛けてしまったのである。(ああ、足腰の筋肉がこんなに減ってしまったのだな。こりゃ鍛えていかなけりゃいけないぞ)心に呟き、それから腰掛け動作を繰り返し行う練習を、少しづつ行うように心がけた。手術による痛みや苦痛は全く起こらず、とにかく経過は頗る良好であった。
そして、年が明けて1996年元旦をむかえた朝食に鯛の尾頭付きが添えられていたのにもびっくりした。恐る恐る鯛の身を少しずつ箸で取って口に入れ、よく噛んで、飲み下すことが出来たときは、感動した。
池田先生からの食事上の注意事項としては、「こんにゃくのような消化し難いものは、余り一度には食べないで下さいよ」ということであった。
1月8日、点滴装置が取り外された。そして1月13日に一時退院して帰宅。15日、久しぶりに自宅でうどんを食べ、おいしくて少し急いで多めに食べたせいか、つかえてちょっと苦しんだ。
夕刻、再び病院にもどった。17日、支度を整え先生やナースにご挨拶、支払を済ませて無事退院した。
退院報告とお見舞いのお礼の手紙には、「食事は当分お雛様ほどの品の良さを続けなければならないでしょう・・・」と書いたが、実際は結構もっと食べることが出来た。(勿論、大変用心してはいたが・・・。)
退院の翌月2月27日、私は妻の慰労と、自身の休養を兼ねて2人で伊豆下田の温泉ホテルに一泊旅行をした。この夜、孫娘の大学入試合格通知があり、祝杯に久しぶりの御燗酒を1合とって、ゆっくりと味わった。じつに美味かった。翌日は、公園の高台に早咲きの桜が評判だったが、さすがにその見物は妻だけに任せた。
翌三月の始め、友人の伊藤力雄さんから、スイス・イタリーのスケッチ・ツアーの案内状が届いた。
私は学生時代に「アルプス登攀記(ウインパー著)」を愛読し、ウインパーが何年も研究し、再三の辛苦を重ねてやっと世界で初の登頂に成功し、その歓呼のあとに突如として起こった遭難の悲劇を経験した魔の山、マッターホルンを一度でよいから目にしたいとかねがね胸を焦がせていたので、行きたくて堪らなくなった。その計画は伊藤氏の奥さんが所属していた「新鷹会」(墨絵の会)の会長の呉 斉旺(土ケ端武四郎)先生〔全国水墨協会審査員、日中水墨協会理事〕の企画で、スイスからイタリーへ行くスケッチ旅行で、日程予定は3月下旬出発4月5日帰京となっていた。
何しろ、退院後3ヶ月以内での海外旅行とて、少し心配もあったので、早速執刀主治医の池田先生にお伺いを立ててみた。先生のご返事はこうであった。「白土さん、そういうことの為にした手術ではありませんか!是非、行ってらっしゃい!」私の心はもう、スイスに飛んでいた。実は呉先生主催のツアーには、前の年の6月、10日間の東欧旅行(プラハ・ブダペスト・ウィーン等)にも参加し、呉先生始め新鷹会の皆さんとは、親しくさせて頂いていたのであった。
伊藤氏に、ツアーへの参加希望を伝えたところ、大変驚いていた。案内はしたけれど、とても参加することは無理だと思っていたようであった。「食事は大丈夫なんですか?」そこで彼に会い、昼食を共にして、主治医の許可を得たことを語った。
私の食事を実際に目の当たりにして、彼はようやく納得し呉先生の許可も得られた。スケジュールが出来てきたのを見ると、先ずジュネーヴに飛び、それからモンブランを見に行く事になっている。これではマッターホルンには、寄ることなくイタリーに向かうことになる。そこで更に心臓を強くして、呉先生に直接お話して、モンブランを止めてマッターホルンに行くよう計画を変更して頂けないかと熱心にご相談した。
先生は鷹揚で、旅行社が変更できると言えば結構ですよ、と許して下さった。私は一応伊藤氏に了解して貰った上で、旅行社の同行プランナーの庄司さんに連絡して変更を求めた。その人は、東欧旅行も一緒にして、親しい間であったが、ちょっと困ったようであった。しかし、何とかしてみようと応じてくれた。その後、計画変更が決まった後になってから、色々なことが耳に入ってきた。
例えば、呉先生は、マッターホルン見物には既に2~3回行ったことがあるとか、マッターホルン付近は、天候がかわりやすく、晴れた山を見るために、2回以上行った人が何人もいるとか、旅行社の担当者は、悪天候に備えて、別な代替案も用意しているとか。
こういうことを知ると、それまでのはしゃいだ気分は薄れて行き、心配で一杯の暗雲におおわれて来た。私は同行の皆さんへ、ウインパーの「アルプス登攀記」の抄録をまとめてコピーして提供したりしてサービスに努め、密かにツエルマット訪問時に好天の続くことを祈った。
いよいよ出発の日3月28日を迎え、18名の全員は晴天の中、シベリア上空経由、中継基地フランクフルトへ向かってとびたった。ここで予定通り乗り換えた航空機は、好天の空をジュネーブに向かった。やがて左手の窓の外はるかに白雪に輝くアルプスの峰々が連なるのが望見された。そのどれかがマッターホルンだろう、あさってはこんな晴天で迎えられるのだろうか?
左窓の席で窓外を見ていた外人が「ジュネヴァ」と呟いた。空港からバスに移った一行は、第一夜のローザンヌへと向かった。翌朝は、いよいよツエルマットへと向かう。この晴天は明日まで続くのだろうか?私にとって長い長いバスの旅であった。ツエルマットは、自動車禁止である。ブリークでツエルマットへの電車に乗り換えた。
電車はゆっくりゆっくり頭を左右に揺らせながら進む。崖を一つ回って行く度に誰もが「こんどこそマッターホルンの英姿が・・・」と期待したが、なかなか現れなかった。ついに、ようやく陽も傾き始めようとしてきた終点もまじかになって、白く聳える姿を見たときは言い知れぬ感動が湧き上がった。
ホテルでの祝宴で、呉先生はスピーチをされ、全員の健康を祝し、私を名指しで手術後にかかわらず、驚くほど元気だと話された。私は今更のように、先生がどんなに心配してこられたかを思い知らされて、慙愧に耐えぬ思いをすると共に、どうやら明日も晴天にも恵まれてツアー全員にご迷惑が掛からずにすみそうなことを心密かに安堵した。それと共に、神様へ感謝の念が胸に広がるのを覚えた。
翌月は天気予報の通り絶好の快晴であった。早朝、朝飯前にホテルを出ると、モルゲンロートに白雪を染めて、赤々と聳え立つマッターホルンの姿がわれわれを祝福し、歓迎しているように、碧空に鮮やかに輝いていた。(帰国後、伊藤さんの夫人はこのときの山の姿を見事な墨絵で描き、それに歌人の夫、伊藤さんが、「雪の峰モルゲンロートに神憶う」と自作の詩を連記して、記念に下さった。)
朝食後、一行は登山電車に便乗し、3,000米をこえるゴルナグラードに登り、そこのクリム・ホテルのテラスから360度の視界を展望し、ぬるい紅茶をすすりながらモンテ・ローザに始まる4,000米を越えるヴァレ・アルプスの連峰を雲ひとつない快晴のなかで心行くまで眺めることが出来た。ツエルマットに下山して、全員集合したレストランでコップに満たしたワインで乾杯を繰返した。「白土さんのお蔭で、素晴らしい眺めを見られて、幸せでした。有難う御座います」と同行の皆さんに口々に言われ、もし嵐にでもなっていたらと、心の中では恐縮しきって小さく小さくなっていた。今更のように運が良かった事を喜び、我儘をお許し下さった呉先生、旅行社の庄司さんに心から感謝を捧げつつ、グラスを重ね合わせて何回も乾杯した。
更に街のレストランでの夕食会では、陽気なヤンキーグループなどのラッキーなツアー・グループと合流して乾杯を繰返した。
翌日はマッターホルンに別れを惜しみつつ、又幸運を感謝しつつツエルマットを後にし、氷河急行でアンデルマットに向かい、そこからバスに乗り換えてイタリーへとバスの旅を続けた。ミラノ、ヴェネツイア、フィレンツエ、アッシジと予定コースを無事楽しみ、ローマに到着は4月4日であった。その夜は、陽気なイタリーの流しの民謡をギターと朗々とした歌声で楽しみつつ、大成功だったツアーを喜び合って、お別れの乾杯を繰返した。翌日帰国の途につき行きとおなじルートを経て日本へ向かった。
私は、この旅行の間、快晴に恵まれ続けたこともあり、毎日観光にすっかり心を奪われ、昼も夕もワインをたっぷり飲み、何時の間にか手術の事などはすっかり心の隅にしまい込んでいた。また、術後の肉体的苦痛などが全くなく、同行の皆さんも私の体調など全然気にしなくなっていた。
4月6日の昼前に成田に帰還した。
出発前に、偶々行われたクラス・メートとの会合の席で、ある友人の一人は、「おい、彼(私を指して)をよく見ておけよ。もう会えないかもしれんからな」と大きな声で話していた。皆、大手術後3ヶ月の外国旅行を、全く無謀で、無思慮な行動だと呆れていたのである。結果的に私にとっては、実に楽しい思い出となったのみならず、健康回復にはこの上ないリハビリとなったようである。
その後、内科や外科の担当医師の方々は、定期的に種々の検査をして下さってきているが、幸せにも特段の問題も発生しないでこられた。
2005年の今年の暮れに私は85歳の誕生日を迎え、同時に胃全摘手術後丁度満10年目を迎える。この手術当時の75歳の年齢は、池田医師がこの種類の手術を執刀された患者の最高年齢だと聞かされてきたが、その記録はまだ塗り替えられてはいないとの事である。
私は医師ではなく、農芸化学の一端に関わってきたものであり、医療の専門的なことは論評することは全く出来ないし、する意志も全くない。しかし自分の経験したことは、あるいは癌治療に関心をもたれる方々の興味のご参考になるかもしれないと思って、思い出すままに記したものである。
思えばこのよな楽しいツアーに参加できたのも、胃の内視鏡検査に始まる、7時間にも及ぶ全摘手術の成功の御蔭であった。関与された全ての医師の皆様に厚く感謝の念を捧げつつこの稿を結ぶ。
検査は11月10日に行われた。11月は私の誕生月で、毎年のように人間ドックに行くのが慣わしであったが、今年は内視鏡検査をお願いしようと思った。18日にその結果を聞きに行った。すると思いがけず先生から「もう一度内視鏡検査をやらせて欲しい」との申し出を受けたのである。何故だろう?と不審の念を抱きながら、24日に再び先生の検査を受けに行った。「結果は明日お話します」ということで、その翌日検査結果の説明を受けに行った。
先生は極めて率直に話して下さった。「噴門部に初期の潰瘍が存在します。細胞診の結果から、すぐに外科治療を受けたが良いと思われます。今、外科に連絡しましょうか?」私は充分事柄を理解する余裕もないままに、ことの重大さを反射的に悟り、外科への連絡──入院と手術依頼を即座にお願いした。入院は、12月5日、手術予定日は14日と決まった。
この経過を回顧すると、運命の不思議さと、私が非常に運が良かったことに今更のように驚き感謝の念を抱くのである。先ず、このときに、内視鏡の大家にお願いしたことも、このときに入院・外科手術を予約したことも不思議なめぐり合わせであった。後述のように、手術を担当してくださった池田正視医師は、東邦大大森病院外科所属の若い外科医で、胃の手術で失われた胃を、患者の小腸で作った袋で代用する研究をして来た人であった。代用胃の研究は1950年ごろから行われて来たそうである。池田医師は、この特殊な外科手術のやり方をマスターし、たまたまこの時期に長津田総合病院外科に短期配属されて来ていたのであった。
手術予定日の2日前、池田先生から手術に関するご説明をうけた。体格の良い血色のいい、この医師は、率直に説明してくださった。
「噴門部に小さい初期腫瘍があり、幽門部迄の胃を全摘する必要があります。私が考えている胃切除のあとの再建法は2つあります。1つは、十二指腸よりもっと先の空腸を引っ張り上げて食道とつなぐ方法です。これは、十二指腸の入り口は閉じ、胆汁などの十二指腸から流れてくる消化液は、引っ張り上げ空腸の先の方に流し込むようにする従来から一般的に行われている方法です。
もう一つの方法は、空腸を20センチほど切って袋(パウチ)──つまり代用胃をつくり、胃のあった部分にはめ込んで使う方法です。これはパウチ間置術というやり方です。この方法ですと2時間ほど手術の時間が長くなりますが、手術後の食生活は楽になります。
私の経験では、年齢から考えると(私は当時75歳であった)、術後の食事量は若い人のようにはならないと思うので、第一の方が良いのではないかと思いますが、どちらを選びますか?」
私は自分の生理学に関する知識を一生懸命思い起こし、食べた食物が食道から移動して十二指腸に行き、そこで消化液の分泌を受けて消化される経過を、考えた。そして第二の方法をして貰いたいと意思表示を行った。自然に近い形になる方が望ましいと思ったのである。手術時間の長いことは、医師グループを信頼し、気にすまい、と決断した。そこで、こう返事した。
「私は、体力には自信がありますから、第2の方法でやって頂きたいと思います。宜しくお願いします。」
池田先生はうなずかれ、なお開腹時の様子も考慮するつもりです、と言われた。
こうして私は1995年12月5日に入院し、その翌日から手術の前日13日まで、CT検査その他の種々の検査を受けた。毎日、妻、2人の娘とその家族、親戚・友人等が訪れ、見舞いと激励をしてくれ、とても嬉しかった。
14日、手術の日が来た。
手術室に運び込まれると、私は、脊中へ管を入れる硬膜外麻酔を併用した全身麻酔処置を受けて、間もなく深い眠りに沈み記憶が無く、勿論痛みも不快感も全く無い状態になった。
妻と次女は、手術室近くの廊下の椅子で待機していたが、途中で看護婦に病室で休んでいるように案内され、その際空腸の加工術の実施中だと告げられたそうである。又、後日の説明によると、わたしの腸は細めで、その為パウチ作製に時間がかかったとのことであった。
妻と次女は、7時間を越える手術の無地終了の知らせを受け、熟睡状態の私は病室のベッドへと運ばれた。それから2人は手術室に案内され、脇机の上の皿にうずたかく盛られた、私の切り取られた肉体の部分(胃袋、脾臓、リンパ組織など)の山を見せて貰ったそうである。
一方私は全身麻酔で深い眠りの中にあり、痛み、苦痛、不安などは一切なく、翌朝、戻った意識は全身に接続された沢山のチューブ(体に何かを入れるためのものや、身体から何かを取り出すためのもの)で、少し鬱陶しかったが、ただじっと横たわっているだけの為には、結構便利で楽に過ごせると思われた。それも、日数の経過とともに次第に減らされていった。一番驚いたのは、手術の翌日、病床に見えた小野久弥外科部長が、「貴方は、特殊な手術をうけられたのですが、大変上手に済みました。もうそろそろ身体を左右に回してみなさい。」と言ったことであった。
尿の排出用チューブは取り除かれ、他のチューブを何本もぶら下げながら、個室のトイレに自分の力一つで歩いて行き、用をすませた時は、とても嬉しかった。しかし、ベッドの傍で丸椅子にちょっと一休みと腰掛けようとしたときは、吃驚した。ゆっくり腰をおろす積もりだったのに、支えきれず、すとんと尻が丸椅子の上に落ちるように腰掛けてしまったのである。(ああ、足腰の筋肉がこんなに減ってしまったのだな。こりゃ鍛えていかなけりゃいけないぞ)心に呟き、それから腰掛け動作を繰り返し行う練習を、少しづつ行うように心がけた。手術による痛みや苦痛は全く起こらず、とにかく経過は頗る良好であった。
そして、年が明けて1996年元旦をむかえた朝食に鯛の尾頭付きが添えられていたのにもびっくりした。恐る恐る鯛の身を少しずつ箸で取って口に入れ、よく噛んで、飲み下すことが出来たときは、感動した。
池田先生からの食事上の注意事項としては、「こんにゃくのような消化し難いものは、余り一度には食べないで下さいよ」ということであった。
1月8日、点滴装置が取り外された。そして1月13日に一時退院して帰宅。15日、久しぶりに自宅でうどんを食べ、おいしくて少し急いで多めに食べたせいか、つかえてちょっと苦しんだ。
夕刻、再び病院にもどった。17日、支度を整え先生やナースにご挨拶、支払を済ませて無事退院した。
退院報告とお見舞いのお礼の手紙には、「食事は当分お雛様ほどの品の良さを続けなければならないでしょう・・・」と書いたが、実際は結構もっと食べることが出来た。(勿論、大変用心してはいたが・・・。)
退院の翌月2月27日、私は妻の慰労と、自身の休養を兼ねて2人で伊豆下田の温泉ホテルに一泊旅行をした。この夜、孫娘の大学入試合格通知があり、祝杯に久しぶりの御燗酒を1合とって、ゆっくりと味わった。じつに美味かった。翌日は、公園の高台に早咲きの桜が評判だったが、さすがにその見物は妻だけに任せた。
翌三月の始め、友人の伊藤力雄さんから、スイス・イタリーのスケッチ・ツアーの案内状が届いた。
私は学生時代に「アルプス登攀記(ウインパー著)」を愛読し、ウインパーが何年も研究し、再三の辛苦を重ねてやっと世界で初の登頂に成功し、その歓呼のあとに突如として起こった遭難の悲劇を経験した魔の山、マッターホルンを一度でよいから目にしたいとかねがね胸を焦がせていたので、行きたくて堪らなくなった。その計画は伊藤氏の奥さんが所属していた「新鷹会」(墨絵の会)の会長の呉 斉旺(土ケ端武四郎)先生〔全国水墨協会審査員、日中水墨協会理事〕の企画で、スイスからイタリーへ行くスケッチ旅行で、日程予定は3月下旬出発4月5日帰京となっていた。
何しろ、退院後3ヶ月以内での海外旅行とて、少し心配もあったので、早速執刀主治医の池田先生にお伺いを立ててみた。先生のご返事はこうであった。「白土さん、そういうことの為にした手術ではありませんか!是非、行ってらっしゃい!」私の心はもう、スイスに飛んでいた。実は呉先生主催のツアーには、前の年の6月、10日間の東欧旅行(プラハ・ブダペスト・ウィーン等)にも参加し、呉先生始め新鷹会の皆さんとは、親しくさせて頂いていたのであった。
伊藤氏に、ツアーへの参加希望を伝えたところ、大変驚いていた。案内はしたけれど、とても参加することは無理だと思っていたようであった。「食事は大丈夫なんですか?」そこで彼に会い、昼食を共にして、主治医の許可を得たことを語った。
私の食事を実際に目の当たりにして、彼はようやく納得し呉先生の許可も得られた。スケジュールが出来てきたのを見ると、先ずジュネーヴに飛び、それからモンブランを見に行く事になっている。これではマッターホルンには、寄ることなくイタリーに向かうことになる。そこで更に心臓を強くして、呉先生に直接お話して、モンブランを止めてマッターホルンに行くよう計画を変更して頂けないかと熱心にご相談した。
先生は鷹揚で、旅行社が変更できると言えば結構ですよ、と許して下さった。私は一応伊藤氏に了解して貰った上で、旅行社の同行プランナーの庄司さんに連絡して変更を求めた。その人は、東欧旅行も一緒にして、親しい間であったが、ちょっと困ったようであった。しかし、何とかしてみようと応じてくれた。その後、計画変更が決まった後になってから、色々なことが耳に入ってきた。
例えば、呉先生は、マッターホルン見物には既に2~3回行ったことがあるとか、マッターホルン付近は、天候がかわりやすく、晴れた山を見るために、2回以上行った人が何人もいるとか、旅行社の担当者は、悪天候に備えて、別な代替案も用意しているとか。
こういうことを知ると、それまでのはしゃいだ気分は薄れて行き、心配で一杯の暗雲におおわれて来た。私は同行の皆さんへ、ウインパーの「アルプス登攀記」の抄録をまとめてコピーして提供したりしてサービスに努め、密かにツエルマット訪問時に好天の続くことを祈った。
いよいよ出発の日3月28日を迎え、18名の全員は晴天の中、シベリア上空経由、中継基地フランクフルトへ向かってとびたった。ここで予定通り乗り換えた航空機は、好天の空をジュネーブに向かった。やがて左手の窓の外はるかに白雪に輝くアルプスの峰々が連なるのが望見された。そのどれかがマッターホルンだろう、あさってはこんな晴天で迎えられるのだろうか?
左窓の席で窓外を見ていた外人が「ジュネヴァ」と呟いた。空港からバスに移った一行は、第一夜のローザンヌへと向かった。翌朝は、いよいよツエルマットへと向かう。この晴天は明日まで続くのだろうか?私にとって長い長いバスの旅であった。ツエルマットは、自動車禁止である。ブリークでツエルマットへの電車に乗り換えた。
電車はゆっくりゆっくり頭を左右に揺らせながら進む。崖を一つ回って行く度に誰もが「こんどこそマッターホルンの英姿が・・・」と期待したが、なかなか現れなかった。ついに、ようやく陽も傾き始めようとしてきた終点もまじかになって、白く聳える姿を見たときは言い知れぬ感動が湧き上がった。
ホテルでの祝宴で、呉先生はスピーチをされ、全員の健康を祝し、私を名指しで手術後にかかわらず、驚くほど元気だと話された。私は今更のように、先生がどんなに心配してこられたかを思い知らされて、慙愧に耐えぬ思いをすると共に、どうやら明日も晴天にも恵まれてツアー全員にご迷惑が掛からずにすみそうなことを心密かに安堵した。それと共に、神様へ感謝の念が胸に広がるのを覚えた。
翌月は天気予報の通り絶好の快晴であった。早朝、朝飯前にホテルを出ると、モルゲンロートに白雪を染めて、赤々と聳え立つマッターホルンの姿がわれわれを祝福し、歓迎しているように、碧空に鮮やかに輝いていた。(帰国後、伊藤さんの夫人はこのときの山の姿を見事な墨絵で描き、それに歌人の夫、伊藤さんが、「雪の峰モルゲンロートに神憶う」と自作の詩を連記して、記念に下さった。)
朝食後、一行は登山電車に便乗し、3,000米をこえるゴルナグラードに登り、そこのクリム・ホテルのテラスから360度の視界を展望し、ぬるい紅茶をすすりながらモンテ・ローザに始まる4,000米を越えるヴァレ・アルプスの連峰を雲ひとつない快晴のなかで心行くまで眺めることが出来た。ツエルマットに下山して、全員集合したレストランでコップに満たしたワインで乾杯を繰返した。「白土さんのお蔭で、素晴らしい眺めを見られて、幸せでした。有難う御座います」と同行の皆さんに口々に言われ、もし嵐にでもなっていたらと、心の中では恐縮しきって小さく小さくなっていた。今更のように運が良かった事を喜び、我儘をお許し下さった呉先生、旅行社の庄司さんに心から感謝を捧げつつ、グラスを重ね合わせて何回も乾杯した。
更に街のレストランでの夕食会では、陽気なヤンキーグループなどのラッキーなツアー・グループと合流して乾杯を繰返した。
翌日はマッターホルンに別れを惜しみつつ、又幸運を感謝しつつツエルマットを後にし、氷河急行でアンデルマットに向かい、そこからバスに乗り換えてイタリーへとバスの旅を続けた。ミラノ、ヴェネツイア、フィレンツエ、アッシジと予定コースを無事楽しみ、ローマに到着は4月4日であった。その夜は、陽気なイタリーの流しの民謡をギターと朗々とした歌声で楽しみつつ、大成功だったツアーを喜び合って、お別れの乾杯を繰返した。翌日帰国の途につき行きとおなじルートを経て日本へ向かった。
私は、この旅行の間、快晴に恵まれ続けたこともあり、毎日観光にすっかり心を奪われ、昼も夕もワインをたっぷり飲み、何時の間にか手術の事などはすっかり心の隅にしまい込んでいた。また、術後の肉体的苦痛などが全くなく、同行の皆さんも私の体調など全然気にしなくなっていた。
4月6日の昼前に成田に帰還した。
出発前に、偶々行われたクラス・メートとの会合の席で、ある友人の一人は、「おい、彼(私を指して)をよく見ておけよ。もう会えないかもしれんからな」と大きな声で話していた。皆、大手術後3ヶ月の外国旅行を、全く無謀で、無思慮な行動だと呆れていたのである。結果的に私にとっては、実に楽しい思い出となったのみならず、健康回復にはこの上ないリハビリとなったようである。
その後、内科や外科の担当医師の方々は、定期的に種々の検査をして下さってきているが、幸せにも特段の問題も発生しないでこられた。
2005年の今年の暮れに私は85歳の誕生日を迎え、同時に胃全摘手術後丁度満10年目を迎える。この手術当時の75歳の年齢は、池田医師がこの種類の手術を執刀された患者の最高年齢だと聞かされてきたが、その記録はまだ塗り替えられてはいないとの事である。
私は医師ではなく、農芸化学の一端に関わってきたものであり、医療の専門的なことは論評することは全く出来ないし、する意志も全くない。しかし自分の経験したことは、あるいは癌治療に関心をもたれる方々の興味のご参考になるかもしれないと思って、思い出すままに記したものである。
思えばこのよな楽しいツアーに参加できたのも、胃の内視鏡検査に始まる、7時間にも及ぶ全摘手術の成功の御蔭であった。関与された全ての医師の皆様に厚く感謝の念を捧げつつこの稿を結ぶ。
2005年5月8日 白土 志郎 記
(恵泉女学園大学教授、科研製薬元常務・東大・農博・農化・昭17)
(恵泉女学園大学教授、科研製薬元常務・東大・農博・農化・昭17)
関連サイトリンク集
- 「胃癌術後評価を考える」ワーキンググループ